To the boundless heart , Than a limited thing

〜 限りあるものより、限りない心へ 〜

神聖な好奇心を

 

アインシュタインが残した名言とされるものの中には「好奇心curiosity」がよく出て来る。「好奇心の赴くままに」「神聖な好奇心」「大抵の教育は好奇心を阻害する」など。これらはどれも、学ぶ態度、知恵を持つ「人間」としての在り方を提案していると思う。

未知な事柄を学ぶ時には、精神的な強さが要る。様々なことに「なんでだろう?」と思うこと、「本当か?」と検証しようとする批判的な思考(クリティカルシンキングcritical thinking)、「自分の考えが違うかもしれない」という自分の理解を超えたものに対する寛容さ。時には、自分の頭では到底納得できなくても、一度は全てを飲み込んで「こういう前提があるとして考えてみよう」っていう無茶も必要になってくる。

これらの考え方や思考に向かう態度は、「謙虚さ」と言えるのではないか。

 

17世紀のフランスの思想家パスカルは、彼の著作『パンセ』の冒頭でこう書いている。

「人間は自然の中で最も弱い一茎の葦にすぎない。」

聞いたことはあるだろうか。社会の時間に習うか、もしくは高校倫理で習う。ただし、パンセ原典を読めばわかるが、これには続きがある。

「人間は自然の中で最も弱い一茎の葦にすぎない。ただし、それは考える葦である」

人の思考の尊さを書いた文章だとと管理人は思う。これを原文で読むのか、高校倫理の教科書のように「パスカルは「人は考える葦だ」と書きました」って読むのかには、微妙な差異がある。どちらがいいかは、自分で決めていい。ただ、作者や著者の思考を借りて自分も考えるなら、原典に触れようとするのは、大切だと思う。また、触れて見たいと思うのではないだろうか。

 

 

学びと勉強は違う。

 

勉強は「勉(つと)めを強いる」をいう。(諸説ある)対して、学習は「学び、習う」をいう。両者は違う。学校ではどうしても勉強になる。

勉強によって得るものはある。でも、どこかで自分の中で、勉強が学習に切り替えていかないといけない。学ぶ姿勢は、どこまでも個人の範疇である。しかし、学びたいと思う人にとって習うことができる環境を作るのは、環境の範疇である。

 

今まで何人かに、読書ノートを勧めてきた。少しでも、勉強から離れ、学習の楽しみ(不敬かもしれないが)に連れていければと思ったゆえである。

 

これまでこのページは、管理人の放浪記や読書記録としてきた面が多い。今一度、再開しようと思う。何よりも管理人自身が、現状にあぐらをかかず、謙虚に学ぶ姿勢を保つために。

 

(さて、ノートを受け取った諸君、思ったことはいつでもなんでも書いていい。できるかぎり質問に答えます。書で繋がった学び仲間ですから、互いに価値あるやり取りをしましょう。